我が人生 石あればこそ
No Stone、No Life
館長の「晴
雨読」
1952年(昭和27年)大阪府生まれ。
石集め(石拾い)は小学校低学年から既に始めていた。
小学校5年生から鉱物・化石収集が本格化。高校から大学にかけて低迷(石集めをやめた訳ではないが殆ど思い出が無い。これが惜しかった!人生で悔いが残るとしたらこの時期)したが、社会人になってようやくエンジンがかかる。ホームページの作成、テレビへの出演、多くの同好同志との交流、コレクションの充実、定年退職を機に、ついにプライベートミュージアムの開設と鉱物趣味にとって一大イベントが続き現在に至る。
人生を終えるその瞬間まで(いや、あの世に行っても!)石を楽しむぞ!(写真は大阪北摂の某旧坑での館長)
石の履歴書(2024年9月現在)
誕生から石拾いへ
小学校低学年頃まで
 大阪の小さな電気工事屋に生まれる。生家にはどういう訳か祖父の代からの水晶や小石があって玩具代わりだった。小学校低学年の頃から既に空き地で小石を拾っては箱に並べる習性があった。普通の子供がやる遊びには幼少期から殆ど興味が沸かなかった。家の近くの空き地にどういう訳か花崗岩のブロックが積んであり格好の遊び場所だった。ある日その中に数mmの水晶を見つけ大喜びした思い出がある。
収集癖の発生と
鉱物への憧れ
 小学校3〜4年頃から切手集めを始める。この頃は切手集めは子供の嗜みの一つであった。今は子供の遊びが多様化し、昔ほど子供の切手蒐集は盛んではないように思うが、高尚で知的なたいへん素晴しい趣味だと思う。
切手に教わったことも多いし、この歳になっても役立つことがある。
ほぼ同時にコイン収集も始めた。もって生れた収集癖に益々磨きがかかった時期だろう。
 この頃、親に岩石と鉱物の図鑑を買ってもらい、空き地の小石ばかりでまだ手の届かない美しい鉱物に憧れを抱く。

 また、鉱物以外には館長は骨董大好きの変わった小学生だった。
当時、大阪梅田の阪神百貨店に美術品売り場があり、切手やコイン、立派な骨董品が売られており、館長は「おもちゃ売場」ではなく、そちらに魅せられていた。
その売場に飾ってあった「ビルマの仏像」が欲しくてたまらなかった。
確か85,000円くらいしたと記憶している。サラリーマンの初任給が1万円なかった時代だから、それなりに高価なものだったのだ。
勿論買ってくれる筈もなく、買ってほしいとも言い出さなかった。当たり前だが。
遂に鉱物との遭遇  小学校5年の秋(10歳の頃)、人生を決定付ける一大イベントが発生した。
同じくコインを集めていた従兄の家に遊びに行く。入手したコインを見せに行ったのだが、従兄は既にコインに興味は無く鉱物と化石を集めていた。
 思わぬ所で本物の鉱物に遂に遭遇した。どういうやりとりがあったか覚えていないが小さな鉱物標本をいくつかもらった。鉱物標本もさることながら従兄にもらった神戸市白川峠の葉っぱの化石には心底感動した。
因みに従兄は現役鉱物コレクターである。この従兄は父方であるが、母方の従弟はE大学で地球科学を勉強した。親子や兄弟の趣味家はちょくちょくいるが、従兄弟3人が鉱物関係というのは稀であろう。
父のお土産  やはり小学5年の頃、父が佐渡島へ仕事関係の旅行に行ってきた。そのお土産が佐渡鉱山の鉱石だった。金色をしており、館長はスッカリ金だと思い込んでいた。偶々、家業の従業員の人が昔、九州の炭坑で働いており、それは「黄銅鉱」だと教えてくれた。その石は今も手元にある。館長と最も付き合いの長い石である。
鉱物趣味の世界へ  従兄の影響で鉱物趣味を始めて暫くは従兄に石をもらったり、図鑑を眺めたり、偶に親に頼んで近場(大阪府坂口鉱山や多田、白川峠、宇治田原)へ採集に行ったりという生活が続いた。小学6年の夏休みも終盤、偶然行った大丸百貨店心斎橋店(大阪)でついに本格的な鉱物と遭遇した。貝と石の展示会であったのだ。
 そこには図鑑でしか見たことのなかった美しい鉱物のオンパレードであった。今でもその時の驚きと感動は忘れられない。石川山の電気石(500mlのペットボトルくらいあった)、メキシコの燐灰石、USAの三葉虫(エルラシア)を母に買ってもらった。まさに天にも昇る気分であった。その後、大丸に出展していたのが眞鍋鉱物研究所さんと知り、以降今日に至るまでの50年を越える長いお付き合いが始まる。
岩石園が出来た  多分、小学6年の頃だと思う。校庭の隅に「岩石園」が出来たのだ。両手で抱えるくらいのサイズの岩石が白っぽい砂利の上に並べられていた。
どんな岩石があったのか殆ど記憶に無いが1個だけ大阪府能勢の花崗岩ペグマタイトだけは鮮明に記憶に残っている。岩の上部にポケットがあって小さな煙水晶が付いていたのだった。
それと下に敷かれていた砂利が綺麗だったので、昼休みに”採集”に行った。
今思うと石英と白雲母から出来ておりグライゼンではなかったかと思う。
・・・ということは大谷鉱山あたりから来たのかもしれない。
また、当時は冬になるとダルマストーブが使われる。当番制で石炭を取りに行くのだ。そういえば、石炭を”採集”したこともあったなぁ。
S先生との出会い  中学校で最初の担任だったのが25歳のS先生であった。S先生は理科の先生で、高校の恩師であるA先生(A先生は遅刻して駅の延着証明を出しても怒る先生だった。「遅れる前の電車に乗ってこい!」が口癖だった。その時は「理不尽なことを言う先生やなぁ・・・」と思ったが、その後数十年経って管理職になって同じことを部下に言っていた。常に不測の事態を想定すべき、即ちリスク管理である。これが「教育」というもんだろうなぁ。)と共に思い出深い先生であった。

 ある日、館長の石好きを知っていたS先生のお手伝いで理科室の鉱物標本の整理をすることとなった。ラベルを書く作業であったが、ご褒美に余剰の標本を数点頂いた。この時、欲しかった南アフリカ・トランスバールのコランダムを頂いた。心底嬉しかった。このコランダムは行方不明となったが、その時に頂いた富山県高清水の石墨は未だ館長の標本箱に収まっている。また、当時、学研の科学を購読しており、偶に付録で付いてくる鉱物標本が楽しみであった。
失われた10年  中学時代の中盤から大学まで長い低迷期に入る。ボチボチ採集に行ったり、ボチボチ標本を買ったりと熱中するわけでもなく止めるわけでもなく、ボチボチ鉱物趣味をやっていた。従って、この頃の石の記憶が薄いのだ。
 今の私にとっては「悔いが残る失われた十年」である。人脈も形成出来なかった。ここで今のような熱い?気持ちがあれば、標本はいっぱいあった時代だけにすごいコレクターになっていただろうに・・・。その中で忘れられないのがKsさんだ。大学受験に失敗して予備校に通っていた頃、偶然、書店で「愛石界」という雑誌が眼に止まった。そこにブラジルの魚化石を売っているE化石同好会という業者さんの広告があった。しかも館長の住まいと同じ沿線だ。早速、手紙を書くと丁重な返事を頂いた。以後、暫くお付き合い願うこととなったが、Ksさんからは色んなことを教わった。
開国へ!  社会人になって、ある程度のお金が入り、人との接し方も判ってくる。
このころから「大江理工社」や「ホリミネラロジー」、新人研修で東京に数ヶ月居た時に知った「凡地学研究社」など徐々に鉱物趣味の世界を知るようになり、その業者さんを通じて鉱物標本の他、鉱物に関する知識、産地情報や石友を得ることになって一挙に世界が広がった。決して鎖国していたわけではないが開国が始まった。
2回目のデートは・・・  ヨメとの2回目のデートは鉱物採集だった。しかも亀岡の大谷鉱山尾鉱(びこう)捨場での桜石採集だった。要するにズリなどという生半可なものではなく正に鉱山のゴミ捨て場でのデートだった。2人でピンセットを持って地面から桜石を拾ったのだ。
 夫婦の最初の協同作業は結婚式のケーキカットであるが、恋愛時代の最初の協同作業は鉱山のゴミ捨て場での石拾いであった。これが水晶やガーネットを拾うのであれば、その後のヨメの協力度合いもだいぶ違ったものになったであろう。
転勤族の仲間入り  転職して5年目33歳の頃。思いもよらない転勤族の仲間入りをした。
自分は一生、関西・・・と思っていただけにその時のショックははかりしれない。妻もたいそうショックであったようだ。
 しかし、いつまでもクヨクヨしていられない。社命である。ここは潔く辞令に従うしかない。
 会社は当時東京・品川駅近くにあった。環境の激変もあって、暫くは石を愛でる精神的余裕も無く、会社と横浜の賃貸マンションとの往復であった。
その頃、東京で知っていた石人は河津鉱山で偶然、お知り合いになった国立科博のIsさんや標本業者さんなどほんの数名であった。
その後、東京の生活にも少しづつ慣れはじめた頃、国立科学博物館友の会に入った。
 観察会で茨城県錫高野へ行った際、バスで櫻井欽一先生の隣りに座らせて頂き、大感激であった。
錫高野〜東京の数時間、先生の口からは淀みなく鉱物の話が出てくる。驚異以外の何者でもなかった。その後、先生の勧めで無名会に入会させて頂いた。一方、当時立ち上がったばかりの鉱物同志会の会員にもなった。
 また当時、竹橋の科学技術館で石の即売会(ミネラルショーのはしり)があり、コレクターのHyさん(故人)と知り合った。Hyさんのコレクションはその後、ある公立の博物館に一括して引き取られたように凄まじいものであった。恐らく、日本三大コレクションの次、南部標本、今吉標本と肩を並べるコレクションであっただろう。
「これが本当のコレクターかぁ!!」というのが感想であった。その後、北九州、博多、また東京・・・と約40年間サラリーマン人生で9回の転勤を味わうこととなった。
 九州では福岡石の会にも入会し、今もお世話になりっぱなしのHkさんや仕事上で偶然の出会いとなったMsさんなど九州人脈も形成した。
まさに転勤あればこそ・・・である。
インターネットとの
出会い
 元々コンピュータ業界に居た館長にとってコンピュータは身近な存在だった。N-88Basicを使ってプログラミングし、当時は高価であったPC9801でコレクション管理システムを作っていた。
登録からラベル発行まで出来る、自分で言うのは何だが優れものであった。館長にとってパソコンはコレクション管理の専用機であった。
 その頃はインターネットもまだまだの時代だった。会議で大阪へ行った際、初めてインターネットの画面に接し、ある鉱物のサイトを見て衝撃を受けた。そして程なくIBMのAptivaを購入しインターネットに接続した。暫くは鉱物関係のサイトを見て廻ったが、邦産鉱物コレクターを満足させるようなサイトは皆無だった。
そこで一念発起し、苦労の末、鉱物趣味の博物館の前身である「鉱物趣味のページ」をリリースした。
このサイトは当時殆ど無かった(今でも少ないが)日本産鉱物の専門サイトで高い評価を頂いて、多くのコレクターと交流を行う契機となった。そして現在も脈々と(細々と?)続いている。
私の鉱物趣味を発展させた原動力はインターネットといっても差し支えないだろう。
遂にテレビに出た!  50歳になった頃、縁あって和田維四郎先生がドイツに贈った「和田標本」の里帰り標本を入手し、これを持ってテレビ東京の「開運!なんでも鑑定団」に出場した。目的は金額がいくら?というよりも真贋である。朝10時に会場に入って、終わったのが17時過ぎ。出演時間は2分ほどだから番組制作にはエライ手間がかかるのだと実感。番組制作の現場も見られて実に楽しかった。評価の方は本物で112万円の高額評価をもらった。会社を始め周囲にはあまり宣伝していなかったが、結構みんな見ていて、これを機にこの趣味が認知?されたような気がする。鑑定団の後、2つの番組に出させてもらった。雑誌への執筆もあったりでますます鉱物趣味に拍車がかかる。
単身赴任は
この世の極楽
 更に拍車をかけたのが、単身赴任だ。普通、「単身赴任」というと世間では「たいへんですねぇ」とか「寂しいですねぇ」というケースが多いが、趣味人にとってはこの世の極楽浄土である。
 子供も大きくなったエエ歳した夫婦であるから、家事や家計の負担が減る上に、毎月給料はキッチリ入ってくるのでお互い楽であったのは事実だ。既に銀婚式はとうの昔に過ぎたが、夫婦にとってこの2年間は良い休憩であったと思う。勿論、鉱物趣味の面でも更に進歩だ。無名会や同志会、関鉱同などの会に参加して着実に人脈が増えていった。皆さんはこれからの人生の遊び友達だ。
鉱物趣味への恩返し  極楽の単身赴任は2年半で終わった。もっと遊びたかったのに・・・。仕事も自分の力を活かせて結構面白かった。しかしまたまた社命である。潔く戻るしかない。
 しかし関西に帰っても拍車のかかった鉱物趣味は止まらない。ここで更に進化すべく鉱物趣味の普及や後進の育成、正統派の鉱物趣味をこれからの時代に伝えていかねば・・・と一念発起。役員として大阪石友会の運営と共に益富地学会館の運営委員として会のお手伝いをすることとなった。将来的には益富先生以来の会館の貴重な図書を整理、データベース化したいと思う。 
さて、これから・・・
館長の「夢」
 2017年7月で勤務先も完全に定年となり40年以上に亘るサラリーマン生活に終止符を打った。
自分では若いつもりだが、「還暦」をとうに過ぎ、「古希」が目前に迫ってきた。

 一応、世間的には「年金生活者」である。実際、年金だけでは暮らせないが・・・
カテゴリーとしては「前期高齢者」であり、紛れもなく「お年寄り」、「ジイさん」である。
まだ電車では席を明確に譲られていない。いつまでも譲る側でありたいと願う。

 定年退職後の第二の人生の個人目標は二つあった。
まず、小さくても自分の「博物館」を作ること。これは10歳の頃からの「夢」である。
これが達成できないと、他がいくらよかっても人生は及第点にならない。

よくある自宅内の標本室ではなく独立した自分の「城」である。
博物館であるので「生活感」があってはならない。
自宅であるとどうしても生活の延長線上となる。
少々不便はあっても「生活と切り離す」。これが必要条件であった。

これは50代半ばの頃から自分なりに周到に準備してきた。
そして2017年7月に実行に移す。
「夢」に描いたものとは程遠いが、一応、独立したので、最低限のスペックは満たしている。
ただ、まだ「夢の途中」である。一生、夢を追い求めていくぞ!

贅沢を言えばキリがないが、かつて「開運!なんでも鑑定団」で宣言した通りである。
小さくとも一国一城の主であり、文字通り「館長」である。
名前はズバリ「鉱物趣味の博物館」(The Museum of Mineral collecting)である。
但し、親しい友人や石友だけの限定公開である。

 もう一つの夢は鉱物や博物館に関係した仕事(ボランティアではなく「給料」を頂くプロとして)が出来ること。これは無茶苦茶難しい。
65歳からの就職は仕事内容にかかわらずパートタイマーでも難しい。
しかも「博物館」と限定すると、これは殆ど不可能といってもよいだろう。
しかし、幸いにして縁あって或る大学の博物館で鉱物標本整理を担当させて頂くこととなった。
更に、別の石の博物館でも標本整理のアルバイトを始めた。
うまく言えないが、標本整理は鉱物を知っているだけではダメである。標本を知っていないと出来ない。
昔のコレクターは標本を知っていたのだ。
実に有難い事である。ご縁は大事だとつくづく思った。
自分の力が世の中に少しでもプラスとなる限り続けたいと思う。
夢の第二ステージ 更に2019年4月から館長の住まいする街の「指定管理」となった市立公民館で運営職員の職を得た。
非常勤(アルバイト)であるが、まさか、66歳で雇ってもらえるとは思わなかった。
雇って頂いた会社に感謝。
思いがけず公民館で自主事業(市主導ではなく公民館として独自に企画したイベント)として「地学」に関連した講座をやることとなった。世の中、わからんもんやなぁ。
このイベントを通して、地域への貢献、地学ファン、鉱物ファンを作りたいものだ。
これからも趣味と仕事は「生涯現役」である。
(適度な)緊張感と責任感を持ち、達成感を味わえるような人生を送りたい。これからも頑張ります!
更に・・・  2022年、未来のことと思っていた70歳の古希をあっと言う間に通過し今年で72歳になった。
しかし、館長にとっては70歳は一つの通過点に過ぎない。
物欲と好奇心と健康(これがちょっと不安だが)があれば、何とかなる。
それと嬉しいことがあった。大阪府の岸和田市立きしわだ自然資料館から専門員に任命頂いたのである。
まだ、社会に必要とされている、社会のお役に立てる。こんな嬉しいことはない。
頑張るぞ!
所属団体
関係団体
 日本鉱物科学会、益富地学会館(同館運営委員)、岸和田市立きしわだ自然資料館(専門員)、大阪石友会(世話人)、鉱物同志会、福岡石の会、奈良鉱物研究会、吹田地学会、地質学史懇話会、石川県鉱物同好会、鉱物情報同人、日本ファイナンシャルプランナーズ(FP)協会各会員・・・確かこのくらいであったと思う。
標本管理  以前はACCESSによりデータ管理を行っていたが、PCの機種変更やOSの変更があって、今はExcelでほぼ手管理に近い状態であるが、そんなに不便は感じていない。
標本点数も半減して約1,900点なのでExcelで十分かと思う。
コレクションの内容 @日本産古典銘柄標本であるが、段々、その価値の判るコレクターが減ってきたのは淋しいことであるし、危機感も感じる。
A大阪府産鉱物(+兵庫県産鉱物)
Bブック型標本、組標本 最古は江戸時代?のもの、明治時代の金石舎のものなど。
 特に江戸時代のものは緒方洪庵(適塾)所縁の好事家所有のものである。
C標本ラベルなど鉱物史資料。自慢の逸品は和田維四郎博士の直筆ラベルと名刺。
好きな鉱物 ・妖しい光を放つ妖艶な濃紅銀鉱や淡紅銀鉱などのルビーシルバー。なぜ、銀なのに赤くなるのか?
・重厚な四面銅鉱、ルソン銅鉱。なぜ、ルソン銅鉱は赤いのか?
・美しく、華麗、可憐な桜マンガン。
館長の目標とする先人
コレクターとして・・・ 和田維四郎先生 勿論、面識はありませんが、神様です!
櫻井欽一先生 スーパーコレクター!知識も他の追随を許さない!

石好きとして・・・ 木内石亭翁 勿論、面識はありませんが、あの石への執念は凄い
「石の長者」と「浪花の知の巨人」
木村兼葦堂翁

趣味の先輩として
人生の先輩として
丸本龍ニさん 一人の人間としての私の目標でもあります。
まさに「ジェントルマン」でした。
水舟淑朗さん 水舟さんとの出会いは、まさに「奇しき縁石」
鉱物の大先輩であり、人生の目標でもある。
感謝しかありません。

研究者として・・・ 白神正夫先生
高岡公昭先生
「大阪府の鉱物」研究は白神先生、高岡先生あってのもの
眞鍋鶴松先生 館長の鉱物趣味の原点

宝典の著者 木下亀城先生 館長の宝典、原色鉱石図鑑の著者。図鑑をボロボロになるまで読みました。親に「それくらい勉強したらエエのに」と言われた。